あるペットボトルのユートピアのお話

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(Translation in Japanese : Mariko & Junko Saito)

あるペットボトルのユートピアのお話。

海に漂うありふれたペットボトル。

難破船からの便りが入っていて、秘密があばかれるかもしれない。実際はどこにでもある何の価値もないプラスチックゴミにすぎない。生産され、使われると、すぐゴミ箱に捨てられ、ゴミ収集車でゴミ処理場へと運ばれる。これがゴミ廃棄のたどる道。プラスチックの寿命は千年といわれているのに、海の大波にもまれて、見知らぬ場所に流れ着く。そこでは似たような身の上の仲間たちが、新入りを迎えてくれた。焼けつくような太陽の下、ペットボトルは徐々に海水に反応し、少しずつ海の生態系を汚染する。波と風に溶けていきながら、ペットボトルはふと思い出す。

人から人へと手渡され、喜びを分かち合い、眩暈がするほど幸せだったあの時。想像もしていなかった素晴らしい世界。ペットボトルは、自分が人々の汗の結晶で、誰かの役に立てることを誇らしく思った。そのためにこそ、造られたのではなかったか。企業で生産され、技術の発展の歴史の一頁となれたことを自慢に思った。将来使ってもらう人に、快適と幸せをもたらし、今日の経済発展に貢献できると確信していた。その一方で、その道に詳しいわけではなかったが、人々が危機について話しているのも耳にした。地球温暖化、環境への脅威、生命、健康の危機。しかし、全てはしょせん自分には関係なく、絵空事だと思っていた。ペットボトルは、エネルギー消費や石油利用の最も身近な例である。農業の流通にも一役買い、ジュースやスープなどの容器としても、目覚ましく働いた。確かに貢献したといっても大したことはなく、短命だったことは認めるが、ペットボトルはこの消費社会の一員だったと自負している。全て秩序正しく完璧だと思っていた。しかし、結局、ただのペットボトルに過ぎなかったのだが。障害を持つ若者の話を聞いたことがある。この若者は仲間たちとプログラムを制作し、3Dプリンターでペンチ状の道具を作った結果、ペットボトルの蓋を開けられるようになった。まるで魔法のようだった。

ペットボトル。この言葉を世界中の国ではどんな風に呼ぶのか、と初めて考えてみる。ある言語ではこの単語は使われていないかもしれないし、以前は知られていなかったかもしれない。ペットボトルは少し動揺した。もしこの単語がなければ、どう呼んだらいいだろう。ペットボトルという名前があって初めて、意味と形がはっきりする。何より、その存在価値を認めることができる。ペットボトルという言葉は、現代の辞書に載るだろうか。載らないはずはない!と胸を張って思う。世界中でどこでも使われているし、素晴らしい現代文明を体現しているのだから。

その時奇妙なことに、空の上をドローンが飛んでいるのを見たような気がする。見捨てられたこんなところでドローン?錯覚に違いない。幻覚に違いない。ペットボトルは、またいつものように思いを巡らせる。

もし本を書くことができるなら、今まで通ってきたいろいろな場所について飽きることなく語ることだろう。陸と海のことを。川、山、森、都市のことを。ペットボトルは多くの国境を越え、たくさんの国を横切って、富と貧困の格差に気づいた。貿易や文化のグローバル化も見てきた。廃棄物は常にこれらの問題に深くかかわっている。ペットボトルで、現代の世界観を分析できるかもしれない。消費者はペットボトルのいろいろな使い道を思いついた。

昔、エンジニアのデスクでデザインが描かれ、その形の美しさとすんなりとした曲線に、みんなが魅了されるかと思われた。ペットボトルの未来は約束されていた。危険性など考えもしなかった。どんな災いも、他人事のよう、ありえないことだと思われた。しかし、今、どれだけ自分が脆い存在であるかがわかる。海で溶けていく運命であることを知っている。それは歓迎されざる状況であることも。そしてペットボトルは疑い始める。前からわかっていたら、違う一生を送っていたかもしれない。

そしてこの脆弱な地球について考える。人類を含むすべての生物とあらゆるものに危険が迫っている予感がする。海に溶け出した分子の一つ一つが、プラスチックの発展と改善の物語の最終章に差し掛かっているのを感じている。結局、海に漂うペットボトルに過ぎない。ペットボトルは、何を成し遂げられるかと最後の力を振り絞って考える。ペットボトルは、たったひとつの使命を果たした。やることはやったのだと。こんな奇妙な状況は、誰に分析できるのだろう。

ペットボトルは絶望的に孤独だった。感じていることを世界に伝えたい。現代の問題と、至急解決しなければならないことに、気が付くように、人々の良心に訴えたい。しかし、ゴミの大陸で死にかけているペットボトルにとって、全ては複雑すぎた。未来の世代が、この名もないペットボトルについて語ることはないだろう。

ペットボトルは、今までのやり方をやめなければいけないと理解させるために、何でもするだろう。また、ものや生き物、世界に対する教育法を考え直すべきかもしれないと。しかし周りを見ると、その考えはただのユートピアに思えてくる。海の、ペットボトルのユートピア。ペットボトルなどには、人間の責任追及などできないし、意識を向上させることもできない。賽は投げられ、決断が下された。ペットボトルにはそれがよくわかる。そしてペットボトルは、もし全部やり直すことができたら、と考え、もう後戻りできないことを知って、その考えを捨てるため、何かすべきことがあるとすれば、全ての錯綜した状況を考え、皆で分かち合わなければいけない。ペットボトルの思いはここで中断された。

信じられないことに、誰かの手がそれを拾い上げた。そんなことがあるわけがない。でもそれは現実だった。暖かい人の手のぬくもりを再び感じる。それこそ、ペットボトルがこの世界を好きになった触れ合いだった。突然ペットボトルは、走馬灯のように自分の一生を目にした。設計図面、レイアウト、工場と瓶詰め工場、飲み物売り場の棚から買い取られ、人の役に立った大きな喜び、捨てられて処分される工程、大海原に漂うことになるまでの長い道のりを。そして、久しく聞いていなかった人の声が聞こえてきた。「このペットボトルがどこから来たか見てごらん。」「信じられない!良いサンプルになる、持っていこう。」